静かに死にたい

いまだに生きてる。結構しぶとい。

SNSにて

娘が自殺したことをSNSに書いてる人がいた。

自分の娘は「悩んだ様子も見せずに」「急に亡くなってしまった」と。

「悩みを吐き出せる子が羨ましい」と。

 

え、娘のせいですか?と、何度も自殺をしかけた自分は思った。

 

ところで、私も自殺をする前に何度も何度も何度も何度も両親にサインを出した。おそらく両親はそれに気付いていた。「何かおかしい」とは思っていたし実際にそういう話をしているのも聞いた。でも、何もしなかった。私が自分でカウンセリングに通わなければ何もしてこなかったと思う。

私は臆病だったから初めての自殺未遂で死ぬことができなかった。でも、臆病じゃなければ死んでいた。サインは出してた。何度も。

 

自殺までしてしまったんだ。まして、この人の言う娘は高校生。

隠し通せるわけがないだろ!!!

家族で、一番身近で、一番助けて欲しい人間なんじゃないのか!?でないとすれば、信頼関係がなかったということだから余計に「話さなかった娘が悪い」の様に一方的に娘を責め立てる様な書き方をするのはいかがなものか!?

サインは出していたはずだ。「気付かなかった」か、「無視をした」。どちらにせよ、自分のそういう可能性を全く無視して娘に非をなすりつける様に見える書き方をし、それを不特定多数の人間が見える場所に公開をする。娘を使って自己承認欲求でも満たそうとしているのか?とすら感じた。

気付いてない、無視してる。それは、自分自身を守るためには必要なスキルだ。自分の耐え切れる重荷以上のものは自分をも潰してしまう。でも、それで他人を否定して、他人の苦しみ、苦しいことに気づいて欲しいという心の叫びを「なかったこと」にしてしまうのはどれだけ残酷で、罪のある行為だろうか。

死人に口なし。

何を言ったところで死んでしまったら意味はないのだ。

自分は自分で救うしかない

前記事で、生きたいと思えるようになった事について記述した。私は今、生きたいと思い始めている。

それは、自分で自分を救ったからだと私は考えている。

順を追って説明したい。

まず私は、薬を飲み始めた事で、仕事のミスや仕事中の眠気がなくなった。仕事をスムーズに出来るようになり、必然的に叱られる事から褒められる事が増えていった。気持ちも過度に落ち込む事が無くなり、「死にたい」と思う回数も減っていった。

病気が見つかり、仕事を辞めるきっかけが出来たが、辞める決意をしたのは私だ。私の選択で行った事だ。

次に、やりたい事を見つけた。今まで無理だと諦めていた夢を、追いかけてみる事にした。

やりたい事は私の生き甲斐となった。夢について何かをしているときはとても充実した時間になった。

 

私は、自らの努力と選択により薬を手に入れて状況の改善をした。

私は、自らの努力と選択により職場環境の改善を行った。

私は、自らの努力と選択により生き甲斐を見つけた。

全て私が選んだ結果であり、私が自ら行動を起こした結果である。自分を救えるのは自分しかいない。こういう事だと思う。

誰かに委ねていた頃もあった。その時は誰も私を救ってくれないと嘆いていた。

違う。自分が救うんだ。

苦しい事も悲しい事も全部知ってるのは自分しかいない。

そんな自分に、自分が寄り添えなかったらもうどうしようもないじゃないか。

嫌いなところも沢山あるかもしれない。でも、そんな嫌いなところも含めて無条件に愛してくれる人なんて、自分くらいしかいないのではないか?

自分を愛そう。自分に寄り添おう。自分を救おう。そして、幸せを感じよう。

 

そのうち、生きるのが楽しくなってくるかもしれない。今から楽しみだ。

 

生きること

今でもふと「死にたい」「死のうか」と思うことがある。でもそれ以上に、「生きたい!!!」私は今、どうしようもなく生きたい!!

こんな気持ちになれるなんて、2年前は想像もつかなかった。こんなに前向きに生きることを考えられる日が来るなんて、予想もできなかった。

2年前の自分に教えてあげたい。必ず抜け出せる。その地獄は、ずっと続くものじゃない。私は、抜け出せた。

必ずしも全ての人が抜け出せるとは言えない。私は私で、あなたはあなただから。しかしながら、こういう人間もいる。抜け出せた人間もいる!辛いことも苦しいこともある。でも、生きたいと思えてる!それが何よりも素晴らしい事だと私は思う!!

 

これが今苦しんでいる誰かのほんの少しの支えになれれば嬉しく思う。

 

怒りっぽい人、人間不信になりやすい人は周りへの期待値が高い

※注意※

当記事は筆者の一考えであり、全ての人に当てはまるものではありません。すぐにイライラしてしまう、人を信じられないなどの悩みを抱えている方の解決のヒントになれば幸いです。

 

 

 

ここ最近よく思うこと。イライラしてしまったり、人を信じられなくなってしまう気持ちの裏側にあるのは、信じすぎてしまう自分の気持ちではないか?ということ。

 

例えばどういうことかと言うと、今まで私は苦しくなると、「誰も助けてくれない」「誰も気にかけてくれない」「どうせ一人ぼっちなんだ」などと考えていた。でもこれは、「困っていればきっと誰かが助けてくれるだろう」「辛そうだったらきっと誰かが気にかけてくれるだろう」「いつも誰かが自分を見てくれているはずだ」という期待の裏返しなのである。でも、一度落ち着いて自分に置き換えて考えて見た。

はたして、自分は周りの全ての人の顔色を逐一気にしているだろうか?

はたまた、気にしていても、苦しんでいることや悩んでいることに気づくことができるのだろうか?

 

正直、心の底から「できます」と言える自信はない。1番身近な家族でさえどんなことに悩んで今何が苦しいのかもわからないのに、それを相手に期待するのはお門違いではないだろうか。

要は自分ができないのに相手ができるわけないだろうという話だ。

 

これに気づけると、案外気持ちがスッキリする。相手の言動や行動にイライラしたときや、がっかりしたときに何故自分はそう思ったのかを考えると根本に"期待していたから"というのが見えて来る。気持ちを見直して見えてきた"期待"を減らしていくことで、今後同じことが起きたときにイライラしにくくなるのだ。

 

例えば後輩が以前に教えたことができず、「なんでできないんだ!」と思うこともあるかもしれない。しかしそれも、「一回じゃできないよね。」と思えるようになれば、イライラすることもなくなる。ちなみにこれは、子どもにも言えることだ。

悲しくて悲しくて今にも泣き出しそうなとき、「誰かが気づいて慰めてくれるだろう」と思うのはまず間違いだ。辛ければ待っているのではなく、自ら助けを求めるのだ。他人の感情など分からないのだから、口にしないと伝わるわけがないと常に思っておけば助けを求めるのも容易になるだろう。

 

以上のことから、人には期待しすぎず、ほどほどの感情で付き合うと大変穏やかに過ごせるし、相手のためにも自分のためにも良いということが言える。

冒頭で書いた通りこれは私の一考えであるので自分はそうではないと思う方もいるかもしれない。

ただ、この記事を読んで少しでも心を楽にしてくれる人がいれば大変嬉しいなあと思う。

 

 

 

さて、ここからは完全に蛇足だが最近よく考えていることをもう一つ。

 

世間でよく言われる「優しい人」というのは、上記をふまえて「周りの人へあまり期待していない人」と言えるのではないだろうか。

「あの人、優しくていい人だな」と思ってた人が実は期待していないだけと思ってしまうと少し悲しくなるが同時に面白いとも感じてしまう。

 

逆説的に、いつもカリカリしていて扱いにくい人は、「人に期待しすぎてしまう人」なのだ。そう考えると、怒りっぽくて苦手な相手でも少し愛着が生まれるのではないだろうか(笑)

 

以上、最後まで読んでいただきありがとうございました。

体の調子までおかしくなってきた

夜中、腹痛で目が覚めた。あまりの痛さに放っておくことができず、トイレに駆け込んだ。排便前に激しい腹痛に襲われることは今までにも何度かあったので、便が出れば治ると思っていた。が、便は思ったように出ず、その後もしばらくトイレでうずくまるほどの激しい痛みに襲われた。

なんとか部屋に戻って寝る。また、30分後ほどに同じく腹痛で目が覚めた。トイレに行くも先ほどと同じように便は出ない。もう一度眠る。1時間後に目が覚めた。それからも同様に。結局腹部にカイロを貼って寝ることにした。何度か痛みで目が覚めたが、少し我慢すれば治ったので眠ることができた。また激しい腹痛。目が覚めた時は昼の12時だった。トイレに行くも今までと同様で、さらに左側に微かな頭痛と両手指先の痺れが出ていることに気づいた。さすがに慌てる。

新聞で医療機関案内の電話番号を見つけ、電話をかけた。頭痛と手の痺れから、脳神経外科を勧められた。しかしどう考えても腹痛の方が酷いので、内科にも電話をした。日曜日でもやっている救急病院。そこで症状を伝えると、一度来てくださいとのことだった。

病院で熱を測ったら、37.7の微熱があった。そして診察室で簡単な問診と腹部に聴診器を当てられた。特に詳しく調べることもなく、原因はわからないのでとりあえずお薬を出しますとのこと。

死ぬほど腹が立った。何だそれは。一日経過を見ると言われたが、あまりにも診療がずさんすぎる。救急病院はダメだ。

帰宅して少し身体を休める。夕飯を食べると、下腹部に刺すような痛み。トイレに駆け込むも便は出ない。仕方がないので、明日一日薬を飲んで治らないようなら明後日病院に行くしかないと思う。本当にヤブ医者を引き当ててしまった。

身体まで苦しくて生きる意味はあるのかとトイレで年甲斐もなく声を上げて泣き喚いてしまったが、やはり私が行くべきなのは内科でも胃腸科でも消化器内科でもなく心療内科なのかもしれない。

また、無意識に死ぬ方法を考えていた。

橋の上から川を見下ろして、ああ意外と高いんだなと思った。一瞬足がすくんだが、ずーっと眺めているうちに吸い込まれるような感覚になった。飛び降りれるかもしれない。でも、ここだと死に切れないかなあ。下が海の方が確実かもしれない。そう思って飛び降りるのはやめた。死にたいとは思っていない。ただ純粋に飛び降りれるなあと思ったのだ。死にたいとは思っていないのに、自殺をしようとしている。自分でも何故かはわからない。ただ、飛び降りるなら海の方がいいなあと思ったのだ。自分が、少し怖い。

 

仕事を始めてから、ケアレスミスが増えた。運の悪いことに、色々なことが重なってそのケアレスミスは大きなミスになっていく。最近はそう言うことが増えて、自分でもどうしてこんな小さいミスを繰り返してしまうのかわからなくなってしまった。どうすれば改善できるのかもわからず、怖い。これがうつ病からくるものなのか、大人の発達障害なのか、それすらもはっきりしない不安。どこにかかればそれを教えてもらえるのかわからず途方にくれる。私は、一体どうしたらいいのだろうか。そんなとき、偶然橋の上を通る。あ、飛び降りれそうだ。飛び降りてしまおうか。その繰り返し。

ただ、以前のように死にたいとは思わなくなったのが成長だとは思う。いまだに周りに多大な迷惑をかけながら生きているという罪悪感はあるが、それが=死にたいとは繋がらなくなった。大きな進歩だ。

やはり一度専門機関にかかる必要があるのだと思う。

 

去年の6月に、うつ病の診断をされた。通院はせずに、カウンセリングだけを行って、一時は回復したように見えた。一度襲われた、ものすごく強い死にたいという気持ちはなくなっていた。しかし今になって、また死にたいと思うようになった。

死にたい気持ちは1〜2週間耐えれば落ち着いた。しかし、突然やってくる強烈な自殺願望に私は疲れ果てていた。次いつまた苦しむのだろうか、という不安感が、いつも心の底にあった。うつ病はやはり通院して薬を飲まなければ治らないのかと絶望した。もう死んでしまいたい。でも、結局死ねない。

ならば生きなければと思い、市販されている抗うつ薬を探した。ダメ元だったが、幸いにも薬はあった。それは「セントジョーンズワート」というサプリメントで、ドイツなどのヨーロッパではうつ病の治療に使われているものらしい。

藁にもすがる気持ちですぐに購入し、飲み始めた。1週間、2週間飲んで、また死にたいと思った。結局ダメだった。死ぬしかないのか、と思った時、セントジョーンズワートは1ヶ月経たないと効果が現れないという情報を得た。

そして、1ヶ月経った今のところ、まだ死にたい気持ちには襲われていない。単に環境がそうしてくれているのか、まだ自殺願望の周期が来てないのか、はたまた薬が効いているのかはわからないが、もう少し続けてみる価値はあると思う。

10年、20年後の自分が、生きたいと思えるように、私はこの病と向き合っていかなければならない。