静かに死にたい

いまだに生きてる。結構しぶとい。

死に場所を決めた

決心した。

繰り返し現れる希死念慮と、死にたいと苦しんでいるときに助けを求められる人間がいないことにもう疲れ果ててしまった。

この先一人で強がりながら生き続けなければならないことに疲れ果ててしまった。

夢に縋り付いて生きようと努力したけれど、頑張る力も無くなってしまった。

だから死に場所を決めた。

大事な人へ少しばかりの恩返しのために、貯金を全て送金することに決めた。

遺書は残さないことにした。余計な悲しみと負担をかけさせないように、ただ死んだことだけが伝わるようにしようと決めた。

それでも速やかに私の死は忘れて、幸せに暮らしてほしいと願うから、いかに楽しく死を決行したかを残せるように、動画に撮ることに決めた。

届くかわからないけれど、もしも見つけてもらえたときに、これほど幸せに楽しく自死を選んだのなら仕方がないと思えるほど、幸福なものを残そうと決めた。

なにも返せなかった。情けない人間だ。

申し訳ない気持ちで押しつぶされそうだ。

できることなら私のことを綺麗さっぱり忘れてほしいとすら願う。

 

思えば6年もの間、繰り返し、繰り返し、自殺未遂をした。

それでも生きることに意地汚く縋り付いてしまった。

ようやく決心できた。

よく生きた。よく頑張ったと思う。

もうそろそろ、苦しみから解放されても許されるのではないか。

もしも次の人生を許されるのなら、贅沢は言わない、死にたいと考えない脳味噌を持った人間として生まれたい。

ようやく解放される。あまりにも長い期間苦しみ続けた。

やっぱり最後は怖い。でも、もう苦しむことの方が怖い。

死ぬ前のやることを済ませよう。

せめて今できることで、私を支えてくれた人に、何か少しでも返すことができたらいい。

そして願わくば、私の大切な人間が、この先幸せに過ごせるよう。

 

追記2020.4.11

コメント気付きました。

ありがとう。もうすぐ死ぬよ。

そのために今準備をしています。

死が待ち遠しい。

余命を自分で決めてやっと、生きていると実感する。

あなたのおかげで1番最初に書いた自分の言葉を思い出した。

最後は、自分でお疲れ様と言うよ。

生きる意味を考える。

まずは死ぬメリットを考える。

・将来の不安から解放される

・苦しみから解放される

・悲しみから解放される

・孤独から解放される

 

死ぬデメリット

・身辺整理が面倒くさい

・痛い、苦しい、辛い

・今までの貯金が無駄になる

 

生きるメリット

・多少なりとも幸せを感じられる瞬間がある

・楽しい時がある

 

生きるデメリット

・苦しみが多い

・常に将来への不安を抱えていないといけない

・人と共存しなくてはならないストレス

 

こうして書き出すと生きるメリットがあまりにも少なすぎて少し笑った。こんなにないものだろうか。

そして死ぬデメリットも大したことないものばかりで、なぜ死なないんだ?という気持ちにさえなってしまう。いや、痛いのが嫌いだからなんだが。

じゃあ例えば痛みも全くなく、一瞬で死ねる機械があったら使うか?と言われると、それも即答で頷くことはできないだろうと思う。引っかかるのは将来の幸せだ。ないかもしれないのに。これ以上苦しいことが待ってるかもしれないのにだ。

死ぬメリットがこれだけあって、生きるメリットが全然ないのに生きようとするのはもう生命の性だからとしか言えないのかもしれない。

死にたいと考えること

死にたいと考える。私は何度も考えた。ここにもそれを何度も記した。ではなぜ、死にたいと思うのか。

極論、「疲れているから」に他ならないと思う。私が自殺未遂をした時の一番の気持ちは「疲れた、楽になりたい」だった。もうそれ以外考えられなかった。目が眩んでいたのかもしれない。

とある映画を見た。物語も中盤に差し掛かった頃、大きな挫折を味わった主人公が「死にたい。疲れた」と言った。大の大人が散々泣き喚いた後、突然大人しくなりぽつりと呟いた言葉。これが私の何度も何度も死にたいと思ってきた古傷を抉った。そうだ。そうだった。死にたいと思う時は、こんな風に擦り切れて擦り切れて八つ裂きになった果てに、溢れ落ちる疲れたという感情から来るものだった。

頑張りすぎているのだ。全てにおいて、手を抜くということを知らない。ガス抜きを知らない。己の中に苦しみを目一杯溜め込み続けて、溢れてしまった結果が死にたいという感情なのだ。

辛い経験をしていない人などいないだろう。だが、ほとんどの人は辛い経験をどうにか処理して身体の外へ流している。それができないから、溜め込んでしまうのだろう。

 

以前から悩んでいる事がある。

友人や家族に、腹の立つ事を愚痴や笑い話として言うことはできても、苦しみや辛さを打ち明ける事ができない。

おそらく自分の中に、そんな事を言われても困るだけだという気持ちがあるからだとは思う。しかしそれができるのが溜め込まない一番の解決策なんだろう。

 

いつの日か、自分の苦しみと上手に向き合える日が来るだろうか。

人の人生を背負うのは重い。まして苦しんでいる人間に対してかける言葉など容易に見つかるものではない。仮に死んで欲しくない人間が死を考えていて、果たしてその瞬間止めることはできるだろうか。死を選ぼうとしている人間の出すサインに、向き合うことができるだろうか。

命を背負う。

重すぎるだろう。下手に関われば自分の心が死んでしまうかもしれない。自分が死んでしまえば元も子もない。人生は己の物であり、他人に左右されるべきではない。

 

では例えば、本当に相手が死んでしまったらどうだろう。

辛く苦しい。悲しい。しかし感情は時と共に薄れる。いつしか、悲しまずにいられる日もやってくる。その時人は、罪からようやく解放されるのだろう。罪悪感という罪の意識。見捨ててしまったという罪。気付けなかったという罪。死以外の道を選ばせることができなかった責務による重圧。止まない後悔。それを、長い年月をかけ癒していく。

そうして1人の死はなくなっていく。

1人の人間が悩み、苦しみ、助けを求め、叫んだ儚い人生が人々の記憶から消えていく。人は2度目の死を迎える。

 

そんな風に少しでも罪の意識を抱いてくれる人間がいるだけで、死んでしまった命も報われるのかもしれない。自分にとって最善と思われる道を選んだ人間も、生まれた副産物を尊ぶかもしれない。

死は終わりではない。この果てしない無数の命が今も生まれ続ける世界で、死んでは生きる生命がある。死とは一つの選択である。なぜなら、人は誰しも必ず死を迎えるのだから。

止む無く死を迎えてしまった人が側にいる場合は、苦しいかもしれないが、どうか、「お疲れ様」と声を掛けて欲しい。

自分の心が元気な時に、日記に書いてある「生きよう」という言葉に泣きそうなほど励まされることがある。

何度も死を考えて、地獄の様な日々を長い期間送った。今は死を考えることはなくなったが、それでも世界で一人っきりになった様な感覚に定期的になる。

そういうとき、自分の前向きな言葉にとても励まされる。「自分のこういうところが好きだ」とか、「辛いことも見方を変えて考えてるときの発言」とか、ストレートに「生きてこ」とか。

こういうことは中々言えない気がする。色んなことを乗り越えることができた今の自分の言葉だからこそ、自分に響いている気がする。

いつも健やかに穏やかに生きることができればそれが一番だが、おそらくそんな人はあまりいない。だからこそ、自分のために自分を勇気付ける言葉を何かしらの形で残しておくと良いのかもしれない。

人との交わり

なんでもないことで苦しくなる。涙が出る。もう幾度となく繰り返した。生き地獄のような日々をまるで出口のない迷路を歩いてるかのように送った。死にかけた。死を選んだ。何度も。それを母は「なかったこと」にする。母は都合の悪いことは全て見ないふり、聞かないふりをする。これだけに限らず。

そんな母に私はいつの日か苦しんでいることを気づいてもらえると信じていた。死ぬことを止めてもらうことを望んでいた。でもそんな日は来なかった。あの時、ようやく自分に向き合った母にはっきりと「何度も死のうとした」と伝えた。でも今、母は私の「何度も死にかけた」という言葉を無視する。

愚痴を話しても、こういうことよくあるよね、腹立つよね、と同意を求めても、肯定が帰ってくることはなかった。それは母の中で「なかったこと」にしたい事の一つだからだ。そういう生き方は自分を守る上でとても重要で、大切な事だと思う。でも、私は実際苦しかった。何回も死のうとした。それを否定されてしまったら、あの時の私は一体何だったんだろう?あの心底苦しくて辛くて堪らなかった死にたいという私の気持ちは何だったんだろう?

苦しいことをなかったことにする。そういう生き方もある。でも、それは近しい人間を殺す。私が死のうとした要因の一つに、母は大きく関わっている。これはずっと避けていたことだが、まぎれもない事実だ。認めないといけない。だが私は幸いなことに死を乗り越えた。

母の嫌な部分に触れるたびに苦しみが湧き上がるが、「家族だからといって必ずしも好きになるわけではない」。この言葉に救われた。私は母を愛していることに何の疑問も抱いていなかったが、この言葉のおかげで「家族だからといって無理に愛そうとしなくても許されるんだ」という気持ちになれた。

私の周りには、母の様な人間が多いと思う。私に人望がないのか、はたまたそういう人間しか周りにいなかったのか、はたまた私の人付き合いの方法に問題があったのか。大学の友人もそうだ。高校の友人も。

 

本当に自分が苦しんだ時、助けてくれる人間なんていない。それはもう何度も死にかけて気づいた。でも自分は、何が何でも自分を助けてあげられる。自分だけは、自分の苦しみを嫌がらず受け入れてあげられる。この世には自分しかいない。苦しいが、これを受け入れ、適度に周りに頼りつつ生きるしかない。

だが、一つだけ言えることは、人によって傷つき、苦しみ、孤独に生きることを望んでも、その心が回復するのもまた人との関わりによる。人との関わりは生きて行く上で切っても切り離せない。

上手に生きよう。苦しみを否定せず受け入れて、逃してあげよう。

人殺しの定義

殺人は、実際に手を下した人にしか定義されないのだろうか。

追い詰めて、追い詰めて追い詰めて、自殺に追いやった人は、殺人犯と一体何が違うんだろう。

相手が自殺しなくても、自殺を考えた時点で追い詰めた人は殺人犯ではないだろうか。

 

誰かを無意識にでも、意識的でも、追い詰めて自殺をさせた、自殺を考えさせた時点でその人は人殺しだ。

糾弾されるべきである。罰を受けないのはおかしいのだ。

命はあっても、心を殺されてしまっている人がたくさんいる。そうなってしまったら毎日を地獄のように過ごさなければならない。

そんな風に追いやってしまったことに気付けているのだろうか。

身体は殺してなくても心は死ぬ。人殺しの定義について、深く考えて欲しい。

 

もう一度言うが、無意識にでも、誰かを追い詰めて心を殺してしまったら、それは人殺しになると私は思う。